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2024年1月31日 (水)

偉大なる花山法皇(師貞親王・花山法皇)

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令和6年NHKの大河ドラマ『光る君へ』に登場する花山天皇が、従来通りの
「変人」として描かれてしまっています。
しかし、これは悪徳権力者、藤原兼家の策謀に基づくものであり、事実は、
今まで思われてきた人物像と正反対の高貴な徳の高い方です。

 

花山法皇 皇室神道の復興=伯家神道の祖
優れた人格者であった花山天皇への「変人」というレッテル張りは藤原兼家一派
による策謀です。前世が熊野の修験者であり、その徳により天皇となられ、退位
後は、瀬織津姫の指示に従い、西国三十三所完成、伯家神道=皇室神道を復活させ
た偉大な業績を残しています。
 第65代天皇であった花山法皇を仏門に導いた仏眼上人は、なんと聖徳太子の墓所を
守る寺である、大阪府太子町、叡福寺の僧侶でした。仏眼上人に関してはウィキペディ
アにもごくわずかしか紹介されていません。
 >仏眼(ぶつげん、生没年不詳)は、平安時代中期の僧。河内国石川寺(叡福寺)に
住した。仏眼上人ともいう。花山院(968年 - 1008年)に、播磨国圓教寺(えんき

ょうじ)の性空(しょうくう)上人の勧めにより、先達として西国三十三所霊場を巡礼

したという(『中山寺来由記』、『谷汲山根元由来記』)。<
熊野権現の化身ともいわれた仏眼上人です。
花山法皇は熊野で修業中に、熊野権現とめぐり合い、西国三十三所を再興することを誓い、
仏眼上人とともに、その偉業を果たしたのでした。    
聖徳太子が創建し、真名井御前が修業した、瀬織津姫が仏教本尊として顕現されたうち

の一つである如意輪観音を祀る京都の頂法寺=六角堂には花山法皇に因む御幸桜(みゆき

ざくらがあります。
御幸桜の>由来は、長徳2年(996)花山法皇の六角堂の御幸により西国三十三所観

音巡礼が始まったことを受け、後の世に、花山院前内大臣(かざんいんのさきのないだ

いじん)が六角堂の桜を見て詠んだ

世をいのる 春の始めの 法(のり)なれば
君か御幸の あとはありけり
から名付けられたものである。<
 六甲山周辺の聖徳太子所縁の寺院、宝塚市小林(おばやし)の平林寺や、神戸市北

区、聖徳太子の母君である間人(はしうど)皇后の御出身地ともいわれる神戸市北区

の鏑射寺などに、花山法皇の御足跡が残されていることも、納得がいきます。 そして、

六甲山、六甲比命神社の上方にある仰臥岩に、熊野権現、仏眼上人、花山(華山)法皇を

祀る石碑(石祠)が祀られていることから、聖徳太子の御意志を継承した仏眼上人と花

山法皇が瀬織津姫様の最も重要な聖地をお守りされていることがわかるのです。ここから

真北に、花山法皇が晩年修行をし、崩御した花山院菩提寺(かざんいんぼだいじ)が位

置しています。 
  
 令和6年大河ドラマ『光る君へ』に登場する花山天皇(即位前は師貞親王、退位後は

花山法皇)が、従来通りの「変わり者」というステレオタイプで描かれています。これ

は大きな誤りです。
>『古事談』によると頭痛に悩んでいたという花山天皇。雨の日は特にひどく、いろんな

治療を試したが良くならなかったのだとか。頭痛に悩む花山天皇を救ったのは陰陽師安倍

晴明。晴明が花山天皇
に申し上げたことは「帝の前世は徳のある行者。大峯山で亡くなりましたが、前世の徳によ

り天皇として生まれ変わりました。ただ、前世の髑髏が岩の間に落ちて挟まっています。そ

のため雨の日に岩がふくらんで圧迫しているのです。大峯の髑髏を取り出して広い所に置け

ば治癒するでしょう」この話を聞いた花山天皇は、晴明が指定した場所に使者を出し、髑髏

を岩間から取り出させた。<
https://www.yoritomo-japan.com/etc/murasaki-sikibu/others/

seimei-densetu-kazan.html
皇室神道を復活された瀬織津姫様と花山法皇  『トノヲシテ瀬織津姫様言霊リメンバリ

ング』より
大江の質問 六甲比命大善神社が瀬織津姫様の祠であることを確信し、2012年の3月4

日に、当時の私の知り合いに声をかけて集まっていただき、男性2名、女性12名で、

瀬織津姫様の磐座として参拝し、瀬織津姫様の御稜(みいつ)威を世にお出しすることを

願って、拝殿前でアワ歌を歌い、お祈りいたしました。
 おそらく、こちらが瀬織津姫様の磐座であると認識して参拝された方として、空海・真

名井御前の時代より後に思い浮かぶのは、花山(かざん)法皇と、聖徳太子の御廟(ごびょう)

を守る叡福寺の僧侶といわれる仏(ぶつ)眼(げん)上人(しょうにん)です。西国三十三所を

復興された花山法皇は、ちょうど、瀬織津姫様の祠の真北に位置する花山院菩提寺で崩御さ

れ、その地より、瀬織津姫様の祠をお守りされている、と推定しております。
花山法皇のお孫様にあたる延信(のぶざね)王(おう)が、長らく途絶えていた宮中の神道を復興

され、同時にこれ以後、白川家=伯家(はっけ)が西宮=廣田を大切にお守りされました。(私は、

皇室神道の復興にも、瀬織津姫様がお力添えをなされたものと思っております。)花山法皇・白川

家の方々について、お伝えいただけますでしょうか。

瀬織津姫さま 
はい、花山様は大変感性のよろしい方でしたし、皇室神道が消えないように、というオオン神

(天照大神)の大きなお力を、取次ぎの私から始まり、お伝えいたしました。この事業は、皇室

のどなたかがなさらなければならない事でございました。尊き血の中に、外来の血が混ざるとい

う危機的な状況もあり、これはどうしても皇室の権威を保つためにも必要な事でございました。

消えかかっていた神道を復興する、という事が高天原の意見としても強かったのです。花山様の

枕辺に立ち、気がついて頂けるようにいたしましたのは私です。この当時、良き読み取り人が居

りました。ともかく皇室神道は特別な役割を持っており、何物にも代えがたいものなのです。

2015年3月4日

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